自分を知るために、瞑想の大事さを説く方が増えています。
音の世界で説明すると瞑想(MEISOO)という音は迷いと心の落ち着きのなさを生む音です。
他の国の言葉の発音で、瞑想を現すものとして
ディヤーナ
サマーディ
サーダナ
という言葉がありました。
上の三つはどの音もそれぞれに興味深い音の質を持っています。
瞑想する人間を解放して、広い(高い)世界との繋がりを持たせようとする音の次元になります。
日本でいう瞑想(MEISOO)という音だけが質を異にしています。
何故でしょうか?
本来の日本人は瞑想という行為をしなくても、日本語を使い、日本の文化の中で生活すること自体で、瞑想でたどり着きたい世界に行けたのではないかと想像します。
ディヤーナ
サマーディ
サーダナ
これらの音の世界を必要としたのは、あえてこの世界に入らないと見つめる事ができないその国の状況があったと思います。
日本人はあらゆるものの中に(自然界も含めて)生命のありがたさを感じ取っていました。
自然とともに生きる人は生活そのものが瞑想だったのではないでしょうか。
万葉集の歌をみても、自然との調和や人としての素直な気持ちが多く現れています。
ただ、物欲や権力欲などの欲にまみれた世界にいる人にとっては、瞑想や内観、坐禅と言った「場」を作らないと自分を失ったのかも知れません。
今、日本で瞑想ブームなのも、それだけ世の中が汚れてきた証(AKASI)かも知れません。日本人の感性が時代の危なさに気がついている。
もし、瞑想するなら、日本的な呼び名が欲しいところです。漢字の音読みの弊害が現れています。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。
(※写真は知り合いが育てている月下美人という花です)